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甘いのは御好き。
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「ねぇ、ヴァニラ」


弾けるようなトップノートで、ふわり、ヴァニラの香が揺れた。
素肌に纏うシーツはとうに温んで、気だるい微睡みに一役を買う。その端を手探りで肩口に確かめながら、名を呼ぶ声を聴いた気がして重く視線を持ち上げた。
未だ幾らも目の慣れぬ薄闇は、けれども今は怖くない。
甘く焦がした飴色の瞳が間近にわたしを映す。

「怖い夢を見た気がするの。お帰りがあんまり遅いから」
「俺の夢でも見れば良いのに」

造りものめいて整うお顔、余剰不足の無い造作。冷たさの先に立つ貌にこれほどまでに柔らかい笑みを浮かべられること、知るのはわたしだけで良い。
抱き起こされるに任せて、気負わぬ緩さのアスコットタイが飾る胸元に顔をうずめる。胸を満たした甘い香りは、わたしと同じ名を負う香水。
僅か甘さを陰らす苦味。紛うはずもない煙草の匂い。お顔を見上げれば、けれど答えは問うより先に無言の抱擁ではぐらかされる。
彼は煙草をやめて久しい。
――ねぇ、今のあの女(ひと)は、煙草を吸うひとでしたかしら。
それとも、ねぇ。
……また別の。

「……寂しかった、わ、」

喉にまで上がる言葉を震える唇で塞いて、代わりに幾らか柔らかに咎める言葉を選って紡いだ。宥める様に髪を撫でられ、決して謝罪を告げることなどしない唇で、代わりに額に口付けひとつ。

「不安なの?バカだなヴァニラ」

肩に握ったシーツが指を解かれて滑り落ちれば、陽の光知らぬ白肌は躊躇いがちに灯を返す。
……夜半に女が纏うものなど、甘く薫るオードパルファム、ただそれだけで事足りる。
この肌はどんな上質な絹にだって劣らぬとお兄様はそう、おっしゃった。

「オマエが一番綺麗だよ」
「……意地悪ね」

二番三番だったならまだ諦めもつくものを。
差し伸べられるは、常はクラヴサンの鍵盤に遊ぶ苦労知らずの白い御手。頬撫でる指先は優しくて、たとえば弦楽の調べを探る奏者の慈しみ深さ。

「オマエだけには優しいつもりだよ」

空いた一方の手、指を絡める。薬指に戴いた煌めきを隠すことさえせず、よくも。
けれど解く名残惜しさを思えば途端に切なさが勝つ。絡めた指に力を添えれば握り返してそれに応えた、その仕草にも愛しさが湧く、――たとえば、そんなこと。
逢えない間に顧みる逢瀬の記憶の端々に、言葉交わさぬやり取りが思いの外に克明で。思えば自然なそんなことを、この最近になって知る。

「……愛してるって言ってくださる」
「愛してる」

嗚呼、知っている。
在りがちな言葉はいつ交わしても大差ない。
回した腕の温もりだとか、そのほうがずっと大切で。言葉改め、
「愛してくださる。今すぐに」


この最近。覚えたことはもう一つ、アスコットタイのほどき方。
外したピンはなくさぬようにベッドサイドの小卓へ。そうして翌朝目覚めた時にはそれが無い、余韻と僅かの切なさで始まる朝の憂うつさ。
重い日差し。痛む躯。
緩いラストノートだけ取り残された白い部屋。
思い返して、独り夜を待つうちにきっとまた微睡んでは、同じことの繰り返し。
繰り返すうち染み付いたのは、瞼を閉じて開いたときには彼がそこに居る幻想。

今はもう。今もまだ。
眠りにつく前夢を見る。
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